獣医師の源は古くから“伯楽”と称され、戦国時代の軍馬や使役に使われた牛馬の性質、行動、生理をよく理解して、治療や削蹄、調教を行なう匠と人々に尊敬されてきました。
ここで紹介する胎児体内切断術は、伯楽と呼ばれるに相応しい故可世木芳蔵氏の開発した技術です。昔の安房の乳牛は能力、資質は高いが、体格が低く、きゃしゃで小柄な牛が多く、体格を大型にすることが最も重要な改良課題でした。そのために、大型の種雄牛との交配を勧めた結果、母牛が小柄にもかかわらず、胎児が大きいことが悩みでした。
可世木式の胎児体内切断術は従来おこなわれていた皮上切断術が産道を傷つけたり、母体の危険を伴うものであったのと比べ、危険のない皮下切断術を採用する独自の開発技術でした。可世木氏は、この畜体における胎児体内裁断方法と器具を考案し、昭和35年関東獣医師大会において発表。その後37年、畜体における胎児体内切断方法と筋肉及び靭帯を往復切断する産科鋏の特許を得ました。さらにその後10年間、息子蔵人の協力を得て改良を重ね、施術に際し、母畜に何ら苦痛も損傷の危険も与えず、しかも技術者が安易に実施できる方法と器具を完成して広く公表、酪農家に貢献しました。
この技術は、アカバネ病による奇形胎児の難産に際しても大いに活用されました。
明治25年4月22日鳥取県倉吉市に生まれる。(先祖は漢方医)昭和50年9月20日没(83歳)。
安房郡で乳牛の改良、泌乳検査で多大な功績を残した安仲就文氏(明治2年3月生まれ、大正14年3月25日没、57歳)が明治42年まで鳥取県倉吉農林で教鞭をとり師弟関係にあった可世木氏は、師の紹介で東京の田村牧場で北海道酪農を目指していた。
後に、安仲氏が安房に招へいされた折、大正4年21歳で可世木氏は誘われ、共に獣医として、改良家として国から払い下げを受けた雄牛を飼い、恩師安仲氏が没するまで良き協力者であった。その後、開業獣医師として乳牛診療に専念、特に難産介助技術開発に努力した。
居ははじめ千倉であったが、館山に引っ越し、晩年は市議会議員を務め、安房、県獣医界の功労者の1人である(なお、可世木蔵人博士は氏のご子息である)。
牛は草を飲み込むように食べ方をする動物です。飼料中に混入した針金等の金物もかむことなく飲み込んでしまいます。また、戦後の工場の発展に伴って、飼料中に金物の混入する機会も増えました。
また、牛の第2胃と心臓は横隔膜を隔てて大変近い距離にあります。そのため、第2胃に入った金物が心臓に刺さるという病気を引き起こす事がありました。牛の命にかかわるこの病気の診断と治療は大変困難でした。
久保又次獣医師は千葉県下に先駆けて、胃内に入った金物を取り出すために昭和26年から開腹手術を始めました。当時は血液検査やレントゲンや超音波診断装置もなく、経験による診断で行なわれていました。約20数年間で250頭を超える牛に手術を行ないました。昭和50年以降、飼料を裁断する機械が使われるようになり、建築ブームとあいまって、飼料に混入する針金や釘が増加しました。また、輸入粗飼料の利用が広まるにつれ再び金物病が増えてきました。可世木蔵人獣医師を中心とする安房地区家畜診療所の獣医師は、原因の追求、その診断法、治療法、予防を確立しました。
現在は、牛の胃内に永久磁石(バーネット8)を投与する事や開腹手術する事なく、胃内の磁石に付いた金物を除去する事が出来るようになり、病気の発生は少なくなっています。
大正元年12月22日千葉県君津市湊町に生まれる。 家業は酪農家であった。
昭和10年、日本獣医師学校を卒業後、館山で開業していた実兄である服部三治獣医師のもとに就業した。
昭和15年、召集、陸軍中尉医官として6年間従軍生活をおくる。
昭和21年復員、館山市北条町にて開業。以後、診療業務に従事する。生家の乳牛を使って、開腹手術を試みるなど、金物病の研究を行なった。
その後、安房獣医師会初代会長、千葉県獣医師会副会長をはじめ多くの役員を歴任し、千葉県獣医師会の功労者の一人である。