明治28年頃、東京では「牛疫」という伝染病で牧場の牛が多数死んでしまった為、牛乳が不足していました。山形県人、高橋銀太郎(後に房南煉乳(株)の社長)は上京してこの有様を見て、東京近県の房州から牛乳を送ることを思い付き、千葉県で飼っていた牛から乳を搾り、館山港から汽船で運びました。これが、東京への生乳輸送の始まりです。その後東京への牛乳の輸送は、色々な人が少量ずつ行ないましたが、鉄道の開通や明治製菓(株)などの進出により、大正9年(1920)頃から飛躍的に増えてゆきました。
当時、東京の牧場で搾られた乳は「市乳」とよばれ、飲用牛乳のほとんどが市乳でした。これに対し、千葉などで搾られた牛乳は、「農乳」とよばれ、最初は乳製品の原料にされました。しかし、農家が酪農をする事を奨励する法律が出来て、昭和11年農乳の生産量が市乳の生産量を上回るようになりました。
汽車で生乳が輸送されるようになったのは大正9年頃からです。最初は客車便で輸送しましたが、送乳輸送専用貨車が仕立てられ、多量の生乳が東京に送られるようになりました。
専用貨車は、牛乳缶の上に氷をおいて腐らないようにしていました。こうして1日十数石から二十数石が送られました(1石は約180リットルです)。
①高橋銀太郎
千葉から東京へ最初に牛乳を運びましたが、法律上の手続きが不足していたため、わずか4ヵ月で、警視庁の命令により中止させられました。
②石井米蔵
南町出身で明治43年、東京の牧場が再び牛疫という伝染病に襲われたとき、汽船で牛乳を東京に運び、以後継続して輸送し、房州から東京への生乳輸送が将来有望であることを実証しました。
明治33年制定され、搾乳や乳製品の製造を行なうものはこの法律で規制されました。
38年から牛乳搾乳営業を行なうもののみが「乳牛飼育者」とされ、農家が飼育者として認知されるようになったのは大正10年からでした。
明治33年頃の東京に、牛乳の殺菌消毒機をそなえた牛乳販売店ができました。ここでは、店の中で牛乳や軽食をとることができ、「ミルクホール」と呼ばれました。
これに似た店が各地にできて、一般の人たちに牛乳を飲む習慣を付けるのに一役かいました。
夏目漱石の「野分」(明治40年発表)
[ミルクホールにはいる。上下を擦り硝子にして中一枚を透き通しにした腰障子に近く据えた一脚の椅子に腰をおろす。焼麺麭(パン)を噛って、牛乳を飲む]
神田付近にはじまり、学生街を中心に目本橋、京都にも広まって行き、学生や若いサラリーマン、商店員などでにぎわいました。
これは、5銭のミルクと5銭のトーストを注文すれば何時間でもいることができ、お金のない若い人たちの格好の社交場になったのです。
●ゼルシー牛乳 | 5銭 | ●ジャムバター付き食パン | 5銭 | ●サイダー | 10銭 |
●玉子入り牛乳 | 8銭 | ●スープ | 10銭 | ●紅茶 | 5銭 |
●ココア | 7銭 | ●純良牛乳 | 4銭 | ●氷牛乳 | 5銭 |
●コーヒー | 3銭 | ●チョコレート | 7銭 | ●ミルクセーキ | 10銭 |
店には新聞や官報が備えられ「官報閲覧所」などの看板が立てられました。
当時の官報には高等学校や官立専門学校などの入学試験の告示や合格発表が載っていましたので、進学志望の学生がミルクホールに通う目的のひとつでした。
上野~浅草間の地下鉄開通(昭和2年:観察絵本キンダーブック第二編乗り物の巻より)
ミルクホールが繁盛する一方で強力なライバルが登場してきました。喫茶店は、明治21年(1888)東京・下谷に開店した「可否荼館」が日本最初の本格的な珈琲館といわれています。大正3年(1914)には現在の喫茶店の原形とされる「不二家洋菓子店」が横浜に開かれ、昭和に入ると喫茶店は各地に続々と誕生しました。
この結果、ミルクホールは菓子、コーヒー、紅茶など5銭均一で、コーヒー15銭の高級喫茶店に対抗しましたが、結局喫茶店の発展に押され昭和7年頃姿を消しました。船橋市には昭和60年代までミルクホールの建物がありましたが、取り壊されました。
大正3年(1914)欧州大戦(第1次世界大戦)が起こると、日本の経済は活発になり乳製品の需要も増大しました。一方で煉乳の輸入は少なくなり、アメリカ産の煉乳に不良品騒ぎがおこるなどして、乳製品は国産のものがもてはやされ、日本の乳業界は活気がありました。
こうした中で、現在の森永乳業や明治乳業の元になる牛乳加工会社が千葉県に生まれました。また、北海道には雪印の元になる組合が出来ました。
こうした企業は、牛乳の処理加工だけでなく、優秀な雄牛を飼って農家の雌牛に交配し、牛の飼い方や経済指導なども合わせて行ないました。このように有力な企業の後押しを受けて、千葉の酪農は安定した発展をするのです。
千葉県に生まれた房総煉乳(株)が合併を繰り返し、大正9年(1920)明治製糖(株)の子会社である東京菓子(株)に合併され、大正13年名前を明治製菓(株)と変えました。第2次大戦中は統制会社となりましたが、昭和25年現在の明治乳業(株)となりました。
森永太一郎により千葉県に生まれた日本煉乳(株)が大正9年森永製菓(株)に合併され、森永乳業(株)となりました。
宇都宮仙太郎と黒沢酉蔵は、大正14年に現在の雪印メグミルク(株)の前身、北海道製酪販売組合を創設し、北海道酪農の父と呼ばれました。
大正期の北海道の牧場
安房で飼育される乳牛の品種は、明治40年頃には全て「ホルスタイン種」に統一され、安房郡産牛組合を中心に組織的な取り組みの中で改良が進められました。こうした努力が房州ホルスタインの名声を一層高めることになりました。
以前から房州では、北海道の大きな牧場から雄牛を導入していましたが、大正の終わりごろ、北海道が「酪農振興計画」を打ち出すと、今度は多くの雌牛が千葉から北海道に渡ってゆきました。この時の模様が「牛のお嫁入り:房州から北海道へ」として、当時の新聞に写真入りで報道されました。
現在では、北海道は「酪農王国」といわれていますが、千葉の牛がその発展に大きく貢献しています。
北海道は大正14年、牛馬百万頭飼育という遠大な計画をたてました。この計画に基づいて北海道は千葉(房州)から、毎年100~200頭の雌牛を購入しました。
この購買は昭和8年頃まで続きましたが、この間2000頭以上の乳牛が北海道の十勝や北見地域を中心に渡ってゆきました。
現在の十勝酪農の様子
現在の北見酪農の様子