明治政府によって全国に県が置かれ、明治6年(1875)6月15日に現在の千葉県が誕生しました。
最初は千葉県庁の中には、酪農を専門に扱う機関はなく、勧業課や、農産課などの課で酪農に関する仕事も行なわれていました。昭和13年にようやく『畜産課』ができると、以後、酪農の仕事は畜産課で専門に行なわれる様になりました。
又、家畜衛生の仕事は、明治以来、『千葉県警察部衛生課』が行なっていましたが、昭和14年からは畜産課に引き継がれました。
その後、酪農・畜産の発展と共に家畜保健衛生所や、試験研究機関など、関係機関が充実され、今日に至っています。
牛乳は、江戸時代の終わりごろ、千葉県出身の前田留吉によって初めて日本で売られるようになりました。
この頃は大変高価でしたので、幕府や政府の高官、外国人、病気療養者などごく限られた人々しか口にすることが出来ませんでした。
年 | 1日平均搾乳量 (リットル) |
100人当たりの1日の消費量 (リットル) |
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明治32 | 13,808.7 | 0.8136 |
33 | 14,647.5 | 0.8496 |
34 | 15,214.5 | 0.8478 |
35 | 15,123.4 | 0.8208 |
36 | 16,308.0 | 0.8604 |
現在の千葉県長生郡白子町に生まれ、20才の時にオランダ人に雇われ、乳牛の飼育管理や搾乳技術、牛乳処理技術を習いました。文久3年(1863)横浜に日本最初の牛乳搾取所を作りました。
明治に入って大蔵省通商司の「御厩(おうまや)」「築地牛馬会社」に招かれて乳牛の管理に当たりましたが、明治3年(1870)東京・芝で最初の牛乳搾取所を作り、ブリキ缶入り1合を4銭で売り出しました。
その他乳牛(短角種牛)の輸入をするなど明治期の日本酪農の指導者として活躍しました。
前田留吉のおいの前田喜与松は、明治12年(1879)に一度に300頭の乳牛(短角種牛)を岫入したほか、明治18年(1885)フランスから牛酪製造の分離器を輸入しました。
現在の鴨川市出身の竹沢弥太郎は、明治12年牛乳販売店「嶺岡牧舎」を東京に開店しました。
嶺岡牧士の子供であった吉野郡造は、政府が牛乳の普及や肉食の普及を図るために作った築地牛馬会社の管理を任されました。
このように千葉県出身の人々が数多く活躍しましたが、当時の安房を中心とする農民の搾乳技術は非常に高く、東京・横浜・静岡などに移住して、その地方の牛の飼い方や製酪の技術の普及に貢献しました。
日本人写真術の開祖である下岡は、前田に遅れて横浜で牛乳屋を開業しましたが、500ドルを出して乳牛を1頭買い、搾った牛乳を売り始めました。
最初は売るのに苦労しましたが、牛乳を搾るところを人々に見せて売るようにしたところ大儲けし、牛を18頭に増やしました。
明治32年、東京の愛光社はアメリカで学んだ牛乳の蒸気殺菌をし販売を始めました。このころから東京の販売は、蒸気殺菌の設備をし、「消毒牛乳」の名前で売られるようになりました。
明治時代になると、政府は「富国強兵」策を打ち出し、「生めよ増やせよ」という風潮が盛んになりました。 それにつれて、母乳不足の場合には、母乳に一番近い牛乳を与えることがよいと盛んにいわれるようになりました。
明治27~28年の日清戦争を契機に兵士の栄養補給のため、煉乳は軍需品として消費が多くなり、輸入晶が増加するとともに、国産の煉乳製造も増えてゆきました。
明治15年頃になると千葉県の牛乳生産量は急増しました。しかし生乳のままでは、保存が出来ず、利用範囲も狭いので、地元で牛乳を処理する工場の建設が待ち望まれるようになりました。
こうした状況の中で、明治26年頃からバターや煉乳(コンデンスミルク)の製造を始める工場が現われてきました。
こうした煉乳・製酪所は、資本不足と技術力不足に悩まされながらも、高品質な乳製品を県内で作り出してゆくようになりました。
明治初年に煉乳は百万~二百万円と当時の金額としては、莫大なものでした。これを国産として販売することは乳業者のユメでした。しかし、乳糖結晶に悩まされて良品が出来なかったことを解決して、良品を出したのは、大山村(現鴨川市)の磯貝煉乳工場が最初です。
この評判を聞いて、インドからエスシーボース(21才)、ケーシータース(22才)の二人のインド人が実習生として入所しました。この指導に当たったのが落合朔治郎でした。
上野精養軒の食卓において、房州バターが賞賛され名声を得ました。その翌年、安房製酪組合は統一して白牛印バターを売り出し、好評を得ました。
明治時代になると東京や横浜では牛乳や乳製品が好まれるようになり、これらの都会にも牧場(牛乳搾取販売業)が生まれて牛乳などを売っていました。しかし都会にいる牛だけでは必要な牛乳をまかなえませんでした。
一方千葉では牛がたくさんいましたが、牛乳の売れる量が限られており、売れ残りが出て困っていました。そこで都会の牧場では、千葉の農家から離乳した母牛を借りて東京に運び、乳を搾り販売しました。千葉の酪農家は、「貸し牛」をして貸し賃をもらいました。
また、千葉の農家は都会の牧場から子牛を預かり、大きく育てて返し、飼育代をもらう「預かり牛」も盛んになってきました。 この「貸し牛」や「預かり牛」の制度は、千葉県の酪農人口を増やし、飼育技術の向上を助けました。
明治20年頃から45年頃まで行なわれた制度で、現金収入の少ない農家にとっては良い副業でしたが、借り主は牛から乳をしぼるだけしぼって農家に返したので牛の体調が悪くなり、貸す農家にとって不利な点もありました。
明治26年頃から昭和5年頃まで行なわれた制度で、農家に育成料が入ってきました。このお金を元に自分でも乳牛を飼育する農家が生まれる良い面もありましたが、都会の牧場が預ける牛は雑種牛で、農家が育てると立派な牛になり、預けるほうは良いことが多くありましたが、農家側は不利なことが多くありました。
この預かり牛の制度を千葉県で熱心に行なったのは、東京の愛光社で、大正時代の末には100頭をこえるほど盛んでした。
日本の乳牛はホルスタインという白黒まだら模様の牛がほとんどですが、このホルスタインを輸入し、国内に普及させたのは千葉県の酪農家達でした。
明治22年アメリカから雄の「嶺雪号」と雌の「ウイラミナ号」が嶺岡に輸入されました。これが安房の乳牛改良の先駆けとなりました。
そして明治40年頃には、安房で飼育される乳牛の品種は全てホルスタイン種に統一され、安房郡産牛組合を中心に組織的な乳牛改良の取り組みが行われるようになりました。
嶺岡畜産(株)は乳牛を輸入し能力向上に貢献させましたが、明治42年には雄のアマデ19世号(ホルスタイン種)、雌のアールチェ号(ホルスタイン種)及びブィブリッシュ3世号(ホルスタイン種)をオランダから購入しました。
この時の購入価格は、雄で1,800円強、雌で1,500円以内でした。この頃の高級公務員の初任給が月55円程度でしたから非常に高価なものでした。
明治42年安房郡産牛組合の専任技師として、優秀な雄牛を導入して交配するとともに、雌牛の牛乳の量と品質を検査する「泌乳量質検定」を始めました。この検定により、能力の劣る牛を淘汰し、より優秀な雄と雌を交配・繁殖させて安房の牛の全体の能力を向上させてゆきました。
安仲技師の3つの功績
①乳牛の改良を進めるうえで雄牛の重要さを教え、実践したこと。
②「泌乳量質検定」を実施し、その成績の良い牛を繁殖に使い、反対に悪い牛を淘汰し、改良を促進したこと。
③明治政府の方針に先立って、ホルスタイン種に品種を統一させたこと。
アメリカ人で現在の南房総市(旧丸山町)に牧場を開き、アメリカでも優秀牛といわれていたブランボンス号を輸入し、交配に使うとともに洋式の乳牛飼育法を実地に指導しました。
明治時代は、文明開化が急速に進み西洋の文化の影響を強く受ける一方で、日本古来の古い伝統も根強く残っており、お互いが入り交じりながら日本独特の新しい文化を築いてゆきました。
千葉県出身の歌人、伊藤左千夫と古泉千樫の2人は、酪農と深い係わりを持ちながら創作活動に当たり、日本の歌壇をリードしました。
千葉県成東町の農家の四男に生まれ、上京して大変な貧乏生活をしながら牛乳店や牧場で働き、千円で買い受けた牛舎と、実家近くから安く買い入れ徒歩で連れてきた牛を元にして、本所区茅場町(現在のJR錦糸町駅南側)で牛乳搾取業(牧場)を経営しました。
正岡子規の「歌よみに与ふる書」に感動し「根岸短歌会」にはいり、子規没後は雑誌『馬酔木』ついで『アララギ』を発行し、子規派の歌風の発展に務めました。また『野菊の墓』や『隣の嫁』という田園に取材した自伝的小説など20数編の小説を描いています。
生前歌壇的にはあまり認められませんでしたが、門下に島木赤彦・古泉千樫・斎藤茂吉などらの有力歌人が現れ、『アララギ』はのちに歌壇の主流になったことから、左千夫はその真価が知られるようになりました。 成東町には生家が保存されています。
伊藤左千夫の歌
「牛飼いがうたよむ時に世の中のあらたしき歌おほいに起こる」
成東町歴史民俗資料館
〒289-1324 成東町殿台392
電話0475-82一2842
現在の鴨川市の農家に生まれ、母校の小学校教員となり、のち上京して帝国水難救済会に勤めました。
『アララギ』の創刊に加わり、伊藤左千夫の編集を助けたあと、大正の末には釈迢空らとともに『日光』を発刊し、ついで弟子たちと『青垣会』を起こしました。歌集に『川のほとり』(1925)・『屋上の土』(1928)・『青牛集』(1933)があり、叙情の本質を深めたといわれています。
嶺岡近くに生まれ育った千樫には牛について詠んだ歌が多く、しかも優れた歌が多く残っています。鴨川市細野の生家の敷地には、当時の面影をそのままに“椿の井戸”が残っています。
「わが家の古井のうへの大き椿かぐらにひかり梅雨はれにけり」
千樫についての資料は鴨川市郷土資料館に整理されています。
千樫の歌
「みんなみの嶺岡山の焼くる火の今宵も赤く見えにけるかも」
鴨川市郷土資料館
〒296-0001 鴨川市横渚1401-6
電話04-7093-3800
①田山花袋の『東京三十年』によれば、
「明治二十九年の渋谷というと、ナラ林と水車のかかった小川のある美しい武蔵野の丘だったが、そこに国木田独歩が住んで、失恋の傷をいやしていた。すぐ近くに乳牛を飼っている牧舎があって、花袋らが訪ねていくと・・・彼は「緑側から『おーい』とよんで、搾りたての牛乳を一、二合とりよせ、それにコーヒーを入れて御馳走した」
とあります。
②画家の川上澄生は、明治三十五年頃のことを『明治少年懐古』に書いています。
「私は尋常(小学)二年の春に青山の長者丸(いまの青山南町)に引っ越したのであったが、右隣は牛乳屋であり、裏は水田をへだてて青山墓地であった。牛乳屋には牛舎があって乳牛が何頭かいた。牛舎に続いて牛達の運動場があった。……私は弟と一緒によく牛乳屋へ牛を見に行った。牛乳配達は家へ帰ると押切りで藁をざくざくと切っていた。それから大きな飼料桶に鋸屑のような感じのするふすまを入れ水を入れてかき廻し、牛の鼻先に置いて歩く。」
③正岡子規の『病状六尺』によると
「警視庁は衛生のためという理由をもって、東京の牛乳屋に牛舎の改築または移転を命じたそうな。そんなことをして牛乳屋をいじめるよりも、むしろ牛乳屋を保護してやって、東京の市民に今よりニ、三倍の牛乳飲用者ができるようにしてやったら、大いに衛生のためではあるまいか」(明治三十五年)。
いつも牛乳を愛飲していた子規、六尺のフトンも広すぎた病臥生活のせいもあって、新聞の伝えるニュースに腹だちがして仕方がなかったようです。
江戸時代が終わると、嶺岡牧は明治政府の管理に移りました。
その後、民間の会社や千葉県が土地を借りたり、払い下げを受けたりしながら管理に当たりましたが、明治44年現在の嶺岡乳牛研究所の広さのみを千葉県が管理するようになりました。
管理者が幾度となく変わりましたが、嶺岡牧は「乳牛改良の場」として、日本の酪農の発展に大きく貢献してきました。
①明治新政府に所管が移る。明治2年(1869)馬387頭、牛122頭。
②明治6年、牛馬の伝染病日本各地に発生、嶺岡枚にも流行し、総数268頭のうち生き残ったもの24頭のみ。
③明治11年、近在の26ヵ村が中心となって設立した株式会社嶺岡牧が発足し、土地を借用し、再建を試みました。
④明治17年、同社は解散したため、農商務省に返還、千葉県の経営となりました。
⑤明治22年、近在の畜産家有志により嶺岡畜産株式会社が設立され、管理されました。この間外国から種牛を盛んに輸入しました。
⑥明治44年、同社は解散に際し、南房総市(旧丸山町)大井の30町歩を県に寄付し、残りは安房郡や諸村に売却しました。
大井には千葉県が種畜場嶺岡分場を設置、大正2年(1913)千葉県種畜場となり、昭和2年(1927)改称されて千葉県嶺岡種畜場を経て昭和38年(1963)5月に乳牛試験場、同じ年の7月に、現在の千葉県嶺岡乳牛研究所となり、県内外の酪農関係者の心のふるさとになっています。