房総里見氏は、戦国時代に、約150年にわたって安房を支配しました。その里見氏が嶺岡牧を領有しました。
徳川幕府は、慶長19年(1614)里見氏の領地を没収しましたが、嶺岡牧を下総国小金牧・佐倉牧(いずれも千葉県)とともに幕府直轄の牧としました。徳川幕府も嶺岡牧に馬を飼育し、多いときは700頭もいたとの記録が残っています。
嶺岡乳牛研究所や酪農のさとは、むかしの嶺岡牧の一部にあるのです。
上の図「房州峯岡山野絵図扣」(石井守氏所蔵、享保10年=1725)では、嶺岡山の牧の規模と牧の御用を勤める野付の村々(丸印)が描かれています。
嶺岡牧の広さは、嶺岡山の部分だけでも1760町余(1760ha余)、周囲17里(68km)と記しています。この広い区域を東上牧、東下牧、西一牧、西二牧及び柱木牧の五つ(嶺岡五牧)に区分し、管理をしていました。
文化5年(1808)ころには、馬が約600頭、白牛が約120頭が放牧されていました。
10代の里見忠義は、一時徳川幕府に重んじられましたが、領内の政治が乱れたうえ、徳川幕府が策した外様大名圧迫の犠牲になり、領地を没収されて今の鳥取県倉吉市に移され、館山城も壊されました。
元和8年(1622)忠義が病死したため里見氏は断絶しました。
慶長19年(1614)幕府直轄地となった嶺岡牧ですが、元禄16年(1703)の大震災で牧が崩壊したため閉鎖されました。
幕府の基盤再建をはかった八代将軍吉宗が亨保6年(1721)野馬奉行に嶺岡牧を検分させ、次の年に嶺岡牧を再興し南部藩や仙台藩など国内の産地から種馬を買い入れ、放牧して馬の改良に乗り出しまた。さらに亨保11年(1726)オランダから将軍に献上されたペルシャ産の雄馬1頭を放牧しましたが、この時初めて外国の馬が日本の馬の改良に使われました。
この野馬捕獲の図は、川島関山画伯(1862~1941)が、捕馬風景として描いたもので、画伯の孫にあたる川島亥良氏(八街町)に、写真提供していただいた貴重な資料です。
下総台地の広大な牧を自由奔放に行動する野馬を、四方土手で囲まれたおよそ1km2の広さを有する鳥觜とよばれる地に誘導し、木戸を閉鎖し、捕馬図にみられるように囲いを高い堤で築いた「捕込」という捕捉施設に追込み、頭数調査、烙印、治療等を行ないました。その中で優れた馬は幕府が利用し、その他は農民等民間に払い下げました。
野馬捕獲は牧の年中行事として、牧のある村々(野付)はもとより、最寄りの村々からも大勢の人々が見物に集まり、大変勇壮かつ賑やかな催事であったといいます。
①里上げ・里下げ
馬がけがしたり病気になったときに、牧士や農家に預けて治療することを「里下げ」、回復したら牧に放すことを「里上げ」といいました。
②捕馬
年に一度春に行なわれました。馬捕場に勢子が追い込んだ馬を、1人の捕手が長いさおの先に縄の輪をつくり、それを馬の首に引っ掛けると、ほかの1人が2本の前脚を抱いて倒し、すばやく残りの1人が口なわをかませて引立てるというもので、熟練を要する作業でした。
③焼印
捕らえた馬に、嶺岡牧の馬であることを示すため、「飛雀」などの焼印を押しました。
④その他
その他にも牛馬の出入や出産、放牧場の整備、帳簿や報告書の作成などたくさんの作業がありました。
江戸時代の中ごろ(享保13年=1728)8代将軍徳川吉宗は美作(現在の岡山県北東部)から白牛を3頭導入し、嶺岡牧で飼育しました。
嶺岡牧ではこの白牛の数を増やすとともに搾った牛乳で「白牛酪」という生キャラメルに似た乳製品を作り、日本橋の「玉屋」などで庶民へも売られるようになりました。
この時始まった「酪農」が現在の酪農や乳業へとつながっていったので、千葉県が日本酪農の発祥の地といわれているのです。
徳川吉宗は新進の気性に富み、当時長崎のオランダ人や中国人から外国の文物や学術技芸・制度などを取り寄せたり学んだりしました。
吉宗は日本の馬と馬術を改良するために、オランダを通じて「洋馬」と「洋式馬術」を輸入しました。
馬の輸入は雄雌合わせて30頭に及んでいます。
吉宗が初めて放牧した白牛は雄1頭、雌2頭の3頭でしたが、嶺岡牧ではこれをもとに数を増やし、64年後の寛政4年(1792)には約70頭までになったといわれています。
寛政5年(1793)幕府は、江戸の野馬方役所(のまがたやくしょ)に牛小屋を作って嶺岡牧から白牛10頭を取り寄せて飼い、酪製薬所を設けて牛酪の製造を始めました。
寛政8年(1796)ごろから販売されましたが、1匁(3.75g)の値段は400文という高価なものでした。
日本橋の玉屋をはじめ全国14ヵ所の取次所で販売されるようになり、営業的にも成功を収めました。
白牛を嶺岡牧から江戸まで連れて行き、江戸で白牛酪を作っていました。
出産間もない母牛と子牛を一緒に江戸に連れて行き、子牛が飲んだ残りを搾乳して白牛酪を製造していました。
江戸で乳が出なくなると嶺岡牧に送り返し代わりに乳の出る白牛を嶺岡牧から連れて行きましたが、往復の両方に「送り状」が出されていました。
寛政4年(1792)、幕末の町医者桃井桃庵(もものいとうあん)に命じて作らせた本で、嶺岡牧の白牛の由来と白牛酪のすぐれた効能を人々にしらせようとしました。
白牛に「よもぎ」だけを食べさせて飼い、2週間目以降の牛ふんを黒焼きにしたものは「御生薬」と呼ばれ、傷薬として使われました。御生薬は、すべて幕府に納められました。